ちーちゃんのお父ちゃん!
親父の話に戻してみると、親父は学生結婚だったようです。
一番上の兄貴が親父が22歳の時に生まれた。今流行りの授かり婚。
おふくろとは親父の下宿先の叔母さん家で出会い、一目惚れだったとのこと。
おふくろはうちの子供たち(末っ子など)が知っている頃はすでにおばあさんだったが、若い頃の写真をみるとモダンガールでした。親父も騙されたのかな。。どちらにしても若い頃は年頃のフェロモンが出てるよね。
今日はここまで。
末っ子コメント
久しぶりに自伝に戻った。じいちゃんは当時もめずらしかったのだろうか?学生結婚かつ授かり婚とのこと。
おじいちゃんらしいエピソードだ。
ちーちゃんのお父ちゃん 就職!
今日も親父の話をします。東大の修士課程を22歳で飛び級卒業して、すぐ朝鮮鉄道に入社し終戦まで朝鮮にいたそうです。
したがって、ちーちゃんの姉貴と2番目の兄貴は朝鮮生まれになります。朝鮮での思い出を親父は飲むと話をしてくれました。
それは戦争が終わって日本に引き上げる時の話です。
軍部や役人の威張っていた幹部連中が本来であれば民衆を守るべきところを、逆に民衆を置き去りにして我先に日本へ引き上げるということを目の当たりにしたそうです。
末っ子コメント
じいちゃんの戦争に行った時の話。じいちゃんは大正生まれなので、実際に第二次世界大戦を経験している世代。学生時代と変わらず反体制派を貫いていたことが伺える。その人が嫌がっていた役人になるなんて人生は面白い。
じいちゃんが孫たちにまで気さくにお茶目に偉ぶることもなく接してたのは、このときに見た嫌な人間たちにはなるまいと心に決めたからなんだろう。
ちーちゃんのお父ちゃん 朝鮮から決死の帰国!
親父は朝鮮鉄道の総務部長職だったが、他の職員や一般方の家族のために、特別列車を運行して一緒に帰還したそうです。それこそ、朝鮮やロシアの兵隊の追跡を逃れながら、帰国したとのことです。従って、金品身ぐるみ全部を与えて命からがら逃げてきたそうです。もう追跡を逃れることができない絶体絶命のときに、親切な朝鮮人に道案内をしてもらい助けてもらったとのことで、そのことを終生感謝していました。
その後日本に戻ってから、昔の朝鮮鉄道の集まりがあって誘われても絶対に行かなかったそうです。親父の言葉では、「クソくらえ」だったようです。
末っ子コメント
朝鮮鉄道とはなんぞやと言うことで、調べてみた。
1923年9月1日、それまで朝鮮にあった朝鮮中央鉄道、南朝鮮鉄道、西鮮殖産鉄道、朝鮮森林鉄道、朝鮮産業鉄道、両江拓林鉄道の6社が合併して発足した。資本金は5,450万円。社長には製紙王と呼ばれた大川平三郎が就任する一方、朝鮮総督府鉄道局から継続的に人材が重役として送り込まれるなど、公との結びつきが強い会社であった。建設した路線及び地域的な広がり等も含め、当時の朝鮮における最大の私有鉄道であった。朝鮮総督府鉄道が「鮮鉄」と略称されていたのに対し、朝鮮鉄道は「朝鉄」と略称された。
保有していた路線のうち慶東線や慶北線などは後に朝鮮総督府が買収し、また他の民営鉄道会社に売却された路線もあった。終戦時まで朝鮮南部に所有していた路線も、米軍の軍政期に国有化された。現在もKORAILなどの路線の一部区間に残り、営業を続けている。
じいちゃんは朝鮮鉄道で働いていた。そこから命からがら日本へ帰国した。正義感が強いじいちゃんだったので、偉ぶる幹部たちがいち早く日本へ逃げ帰ったあと、残された人たちをどうにかしようと特別列車を運行なんてなかなかカッコいいじいちゃんだ。
ちーちゃんのお父ちゃん 帰国後!
親父が帰国してからのことを少しお話し致します。
親父は帰国して暫くして、昔の国鉄今のJRに拾われました。朝鮮鉄道からの引揚者なので主流には戻れず、新規事業のバス事業の担当としてスタートした。私の知る限り転勤の多いところでした。東京、名古屋、東京、大阪、札幌、東京と転々と移動しました。
特に印象に残ったのは大阪から北海道札幌への夜行列車でした。まだ飛行機など乗れない時代でしたので、1日以上かけての列車の旅で、日本海や北日本の雪化粧に子供ながらに新鮮な衝撃を受けました。当時私は小学1年生の冬休みのことでした。
末っ子コメント
じいちゃんの帰国後の話。JRで働いていたことがあるのは初めて知った。バス事業での船出。転勤が多かったとは聞いていたが、5回も転勤を繰り返していたとは。
明日からは札幌編かな。